平成14年春に流産した時の経過とその後の事についてまとめてあります。
内容がヘビーなので、理解ある方のみ読んでくださると嬉しいです。
なお、同じ経験をしたからと言って、共感できる文ではないかもしれません。
いろいろと思う人があると思いますが、これは私の本心であり、実話であり、それを誰かに訴えようと言うものでもなく、流産した人がみんなこうだという訳でも無いので、そこを間違えないようにしてください。
ただの「想い出話」だと思って読んでくださると嬉しいです。



なっちの1歳の誕生日が過ぎてから、猛烈に二人目が欲しくなった。
子供は二人と、心の中で決めていた。
一人っ子だと、将来的になっちにかかる負担が大きそうだと思ったし、自分が兄弟が居てとても救われた事が多かったから。
でも、経済的にも、だーりんの年齢的にも、二人が限度だと思っていた。
それと、兄弟の年齢差を、あまりあけたくなかった。
自分が、上二人と少し歳が離れていた事で、いろいろ辛い思いをした事が多かったから。

なっちを産む前は、年子でもいいとさえ思っていたが、予想以上に過酷だった出産の直後、私はさすがに、「もう二度と出産なんてしたくない」と思ってしまっていた。
それが、人間とは不思議なもので、1年も経つとけろっと忘れてしまう。
いや、忘れたわけじゃない。今でも覚えてるし、あの時は本当に「いっその事殺してくれ」と思った。
でも、不思議な事に、1年経った時点で、「あの時は辛かったけど、今度はうまく出来るような気がする」と言う、訳の解らない自信に変わってしまっていた・・・。

話は戻るが、
ということで、焦っていた。
だーりんは「焦る事無い。運に任せればいい」と言ってたけど、私は焦っていた。
焦る理由はもう一つあった。
どうしても、30歳で出産したかった。
なぜなら、母が私を産んだ歳が30歳だったから。どうでもいい事なんだけど、そこにかなりこだわっていた。


2002年4月中旬。妊娠に気付いた。
生理が来ない。私は生理は月の満ち欠けと同じくらい正確にやってくるので、2−3日遅れると言う事は、80%くらいの確率で妊娠していると言う事になる。
実際、6日生理が遅れた時点で妊娠検査薬を使ったら陽性。
かなり自信があったにも関わらず、なぜか不安がよぎった。「本当に妊娠だろうか・・・」
おかげで、陽性反応が出た次の日も、また次の日も、合計3回妊娠検査薬を使う事になった。
結果、どれも陽性。嬉しくて、陽性反応の出たチェッカーを見てはニヤニヤしていた。

4月25日。自分の誕生日でもあったこの日、産婦人科に行くために仕事を休んだ。
推定6週。早すぎる診察だとは思いつつ、GWに入ってしまう前に、一度診て貰いたかった。
結果、胎嚢確認。胎芽はまだ見えなかった。
前回の妊娠(なっちの時)が、なんの異常も無いものだったから、と言うのもあり、次回の検診は4週間後、と言うことになった。

浮かれていた。勝手に自分で、出産予定日を計算していた。生理予定日から逆算して割り出した出産予定日は12月18日。冬だ。
なっちは夏生まれで「なつみ」という名前になった。今度の子は冬生まれだ。
どうしよう。女の子だったら「ふゆみ」?でも、冬ってはかない・冷たいイメージがあるから名前には向かないか?
男の子だったらなんだろう。いい名前が見つからない。
女の子も可愛いけど、男の子も育ててみたいな。今度の子は性別はどっちだろう。
姉の子が10月に生まれるけど、その子と同級生になるな。どうせなら同じ性別の方が、仲良くなりそうでいいな・・・
など、夢は膨らんだ。
同居している義父母に報告。「大変になるねー」と言いつつ嬉しそうな顔が隠せない義母。
ただニコニコ笑っている義父。それだけで幸せだった。
なっちにも「お姉ちゃんになるね」と言ったけど、本人は解ってない模様。
実家の両親にも姉にも連絡。
今思えばこの日が一番幸せだったかもしれない。


つわりはほとんど無かった。なっちの時はひどくて、毎日吐いていたので、無ければないで心配だったけれど、一人目と二人目は違うと良く言うし、姉が全然つわりの無い人なので、今回は私もそうかと思って喜んでいた。
なっちが手がかかる時期だったので、そちらの世話で精神的につわりを感じている余裕が無いだけかも?とも思っていた。
・・・でも、なんだか少し不安だったような気もする。

なっちを妊娠した時は、初めて産婦人科に行った翌日辺りに、すでに職場の人、友達などに報告していた。
でも、今回は何故かその気にならなかった。一応、私が出産するにあたり、一番迷惑をかけるであろう同僚(女性)にだけ話した。
正直、兄にも妊娠している事を伝えなかった。姉がなんかの拍子に教えてしまったという話を聞いて、「まだダメになるかもしれないのに、何で言ったの〜!?」と怒った。
今考えても、なんでそんな事で怒ったのか、よく解らない。


5月の連休中に、父の退職記念パーティーを、身内だけで行った。
小さいけれど盛大に、料理もおいしかったし、とても楽しい会だった。
控えたと言え、私もビールコップ2杯くらい飲んだ。料理は刺身などの生ものばかりだったが、どれもおいしく食べられた。
しかし、その日の夜、家に帰って、突然の下痢に見舞われた。カニに当たったか?と思うほど、ひどい下痢だった。
でも、その日だけだった。夜寝て、朝起きたら治っていた。だからあまり気にしなかった。


連休中、もう一つ気になる事があった。
なっちとだーりんと3人で、近くのテーマパークに遊びに行ったんだけど、その日、ママは、右足の親指の付け根が、すごく痛かった。
普通に歩けないほど痛くて痛くて、とうとうダウンした。
熱も無く、腫れてもいない。とにかく痛いだけ。だーりんは「痛風じゃないか?」と言ったけど、痛風とは本来男性がなる場合がほとんどだそうで、結局原因不明だった。
しかもそれも1日で治った。正直だーりんは仮病だと思っていたらしい(笑)


そんな波乱含みのゴールデンウィークも終わり、5月に入って、職場は一番忙しい時になっていた。
別にいつもと変わらない生活をしていた。体調もいつもとほとんど変わらなかった。
一度だけ気持ち悪くて吐いた以外は、それほど眠気にも襲われず、平穏な日々を過ごしていた。
だからこそ、なんだか不安だった。何も無い。ただ生理が来ないだけ。
私は本当に妊娠しているのだろうか?と思った。
「なんか、今回ダメかも」
だーりんに向かって、何度かそういう言葉を言った覚えがある。
だーりんはまともに相手してくれなかった。当たり前だ。なんの症状も無い事を憂うなんておかしい。
それに、言葉ではそんな事を言いつつ、「産休はいつから取れるかな?」とか「名前はどうしようか」とか、そういう話も同時進行でしていたからだ。
この頃、姉や実母にも、何度か「ダメかも・・・」と言っていた。誰も相手にしてくれなかったが。

名前に関しては、本当にいろいろ考えていたが、どうしても「ふゆ」が付く名前が考えられなかった。
そして、最後に行き着いたのは、何故か「はるか」にしよう、と言うもの。
男の子でも女の子でも「はるか」にしようと思った。字は「遥」でいいじゃないか。
なっちが漢字三文字で「なつみ」、下の子は漢字一文字で「はるか」でも、実は下の子は冬生まれだよーんというオチつき。ばっちりだと思っていた。
別にだーりんと話し合ったわけではなく、本当に勝手に決めていた。
今思えば、その名の通り、春生まれになってしまったこの子。
これも何かの因果なんだろうか。


5月も終わりの頃、2回目の検診に行った。病院は混んでいた。
不安だった。お腹に手を当てて、「おい、だいじょうぶか?生きてるか?」と1人で呟いていた。
かなり待たされてから、診察室に呼ばれて問診。「なにか異常はありましたか?」と聞かれて「何もありません」と言ったら、内診台に上がるように言われ、エコーで子宮を確認した。

すぐわかった。
胎嚢の中に赤ちゃんはいなかった。
ただ、前回の検診時に見たよりは大きな嚢が見えるだけだった。
中は空っぽだった。

医者は焦っていた。いろんな角度から見ようとしていたが、素人である私にもはっきりわかった状況だったので、もうどうしようも無かった。
唯一、私には解らず、彼女だけ確認できた事は、胎嚢の周りに、既に血の固まりがあり、進行流産の直前だと言う事だった。
「赤ちゃんが、育っていないようです。今回は、残念ですが・・・・流産・・・と言う事で・・・」
有る意味、「信じられない」と言う言い方だった。でも、私はなんだか覚悟が出来ていたというか、それほどショックは無かった。
「はあ、そうでしたか。まあ仕方ない」という気持ちだった。
でも、唯一、手術が怖かった。
生まれてこの方、手術なんてやった事無かった。今回が初めてになる。
大丈夫だろうか。ちゃんと耐えられるのだろうか。不安だった。

手術の予定や、やり方や、入院時の持ち物など、落ち着いて聞けた。
ただ、それをぼーっと聞きながら、先生に「本当にもうダメですか?」と聞いた自分にびっくりした。
少しは希望を捨ててないって事なのかな?
その言葉を聴いた先生は、「いいでしょう。では手術日の朝、もう一度エコーで確認しましょう。それで育っていれば問題無いです」と言ってくれた。
でも、手術日を待たずに流産する場合も充分考えられるので、家で出血した場合は、すぐに病院に来るように言われた。
手術日は5日後に決まった。


診察が終わって、会計を待っていると、だーりんがなっちを抱っこして病院に来た。
遠くから手を振ってきたので、にこっと笑って、頭の上に、腕で「×」を作った。
だーりんはびっくりした顔で、早足で寄ってきた。「本当に?なんで??」
「だから言ったでしょ」と、私はなぜか自慢気に言った。
会計が終わって、駐車場まで歩いて、車に乗った。
病院で説明されたことを、だーりんにそのまま説明した。
その説明の途中で、なんだか自分の感情と関係なく、突然涙が出てきた。
なっちを抱きしめて、声をあげてわーわー泣いた。だーりんは「泣くなよ・・」と涙声で言っていた。なっちは不思議そうにしていたが、黙って静かに座っていた。
やっぱりショックだったんだろうか。よく解らない。悲しい、というより、悔しい気分でいっぱいだった。
その後、3人で食事に行ったような気がしたけど、あんまり覚えてない。
実家に帰ったっけか?どうやって実家に報告したかも覚えていない。
家に帰って、姑に「ダメでした」と言ったのははっきり覚えている。
姑は返答に困っていた。姑は元看護婦なので、そういう人の扱いは慣れているんだと思う。
下手に励ます言葉を言わない方が楽だと思ってくれたんだと思う。「疲れたでしょ。ちょっと休めば?」と言ってくれた。それで充分だった。


その日は、なっちもよく昼寝をしてくれたような気がする。
でも、いつも一緒に寝るのに、私は眠れなかった。
ネットの友達にメールを書く。誰かに言わずにはいられなかった。
「妊娠した」とも言ってない人に「流産しちゃったよー」と何通もメールを書いた。今思えばすごく失礼だし、すごく我が侭だったと思う。
でも、誰かに言いたかった。言う事で事実を受け止めたかった。言う事ですっきりしたかった。
メールの内容は大体同じだった。
「今日の検診で元気だったら言うつもりだった」
「でも、ダメだった。手術が怖い」
「自分で思ったほど、落ち込んでない」
と、この3点だったような気がする。
こんなメールもらって、本当に迷惑だったろうな。メール受け取った方、ごめんなさい。
でも、私はかなりすっきりした。そして、手術に備えた。


検診から手術の日までが、すごく長く感じた。
いつ出血するか解らないという恐怖もあったし、流産した事を、職場に伝え、入院するために病休を取った。
入院中のなっちの面倒を見てもらうために、実家に頼んだ。
私は、手術は怖かったが、入院はなぜか嬉しかった。
一泊二日、寝て過ごせる。私はとにかく何よりも寝るのが好きなのだが、なっちが生まれてからというもの、昼間は好きな時に寝られないし、夜も何度も起こされていたので、それから1日でも開放されるのが嬉しかった。だから、半ばウキウキしていた。手術も、もうこうなった以上、早く処置して欲しいという気持ちでいっぱいだった。


手術日当日。
朝一番で診察を受けたが、やっぱり赤ちゃんは育っていなかった。
というか、5日前と、まったく変わらない状況だった。
「やっぱり育ってませんね。処置しましょう」と言われて「はい」と答えた。
その後、入院の手続きを済ませて、病室へ。
病室は、産婦人科の病室と同じ階だったけど、産婦人科病室ではなかった。
なっちを産んで入院した部屋の隣の部屋で、手術を控えた人と術後すぐの人の部屋で、基本的に面会謝絶になっていた。(でも大部屋)
部屋に行き、まず、入院着(病院で用意してくれるもの)に着替えたら、看護婦さんがやってきて腕に点滴の針を刺した。付き添っていただーりんは点滴フリーク(笑)で、「点滴、気持ちいいでしょー」と言ってたけど、その点滴はなぜかすごく痛かった。
あまりに痛いから、一度ナースコールして直してもらったけど、やっぱり痛かった。
そんなこんなしているうちに、手術予定時間の1時間前になった。
1時間前になったら、麻酔を効くようにする薬を入れます、と言われていた。
その薬を入れると動悸が激しくなったり、気分が悪くなるかもしれないと言われていたけど、実際に入れたら、私の場合、笑いが止まらなくなった。
近年、あれほど、なんだかわからないけど笑った事は無いよ、と言うほど笑った。
もう、箸が転んでもおかしい状態だった。だーりんはそんな私を見て蒼ざめていた。

手術時間になって、車椅子に乗せられて、手術室へ。
なっちを産んだ分娩室は同じ階で、今回もそこで処置を受けるのかと思ったら、別の階の、ちゃんとした手術室に連れて行かれた。
そこに行くと、内診台のようなものがあった。そこに座った。
その後、なんか、先生や看護婦さんといろいろ話したような気がするけど、全然覚えてない。
静脈麻酔という、点滴のところから入れる全身麻酔で、気付いたら処置は終わっていた。
処置が終わった後は、ベッドで部屋まで戻った。
麻酔が切れるまで、時間がかかると言われていたけど、私は部屋に戻った時点で、かなり意識もはっきりしていて、ちゃんとしゃべれた。眠くも無かった。
だーりんは心配そうにしていたが、痛みも無く、終わったんだな、という気持ちだけあった。
その後、だーりんは、1時間ほど見てくれた後、仕事へ。
その後、なんと、付き添いに実父が来た。
本当は母が来るべきだったのだろうが、なっちの世話をしてもらっていたし、なっちを連れて病院に来ないで欲しいと、事前に言っておいたので、代わりに父が様子を見に来たようだった。
状況も状況だったし、なんか父と話す事が無く、緊張してしまった。
もともと無口な父だが、それでも私を励ましてくれるかのように、
「○○さんの奥さんも、2人目流産したけど、半年後くらいにまた妊娠して、今3人のお母さんだ」とか、
「△△さんも、流産経験があるって言ってた」とか、私が決して特別ではないし、これからももちろん妊娠・出産できるよ、と言うのを言い聞かせてくれていたようだった。
そんな父が、やっぱり私は大好きだ。

3時間くらい、父はいてくれただろうか。
夕方になって、父はこの後人と会う約束があるから、と、出て行った。
1人になった。
食事の時間が来た。
とりあえず食事を食べたが、全部は食べられなかった。
夕方の「新生児室公開時間」になったので見に行ったけど、今日は他に面会者がいなかったのか、新生児室のカーテンが開けられることは無かった。
実は、新生児を見るのをちょっと楽しみにしていただけに残念だった。
仕方なくベッドに戻り、テレビを見るが、別に見たいテレビも無く、ボーっとする。
面会時間が終わったので、面会室においてあったマンガ本を物色。
「赤ちゃんと僕」の単行本がたくさん並んでいたので、全部ゲット。久々に読もうと思って読む。
消灯時間が来たけど、眠くないので、単行本を読み続けた。
でも、このマンガ、最後はハッピーエンドなんだけど、ちょっと泣けるのだ。
以前読んだ時は高校生だったからあまり思わなかったけど、母となった今読むと、あの時の数倍、いや、数十倍泣けた。とにかく泣けた。
夜中、1人でぐずぐずとベッドの中で泣いていた。
見回りの看護婦さんがびっくりして、「だいじょうぶ?」と言って来た。
「すみません、マンガが・・・」と言って笑われた。
でも、やっぱりちょっと泣きたかったのかもしれない、と今では思う。
結局「なっちに邪魔されずにいっぱい寝れるぞ、ラッキー!」と思っていた入院、夜中の3時を回っても眠れなかった、というのが現実。

朝起きたら、もう検温の時間だった。そしてすぐご飯になった。
朝ごはんを食べながら、NHK教育テレビを見る。「なっちも見てるかな?」なんて思う。
その後、しばらくして、内診。
子宮内はきれいになっている模様。でも、まだ血が残っているから、出血はするかも、と言われた。
しかし、この時点で、もう出血はなくなっていた。痛みも無かった。気分は良かった。

10:30頃、なっちとパパが来た。なっちは私の顔を見て、「ママ!」と飛びついてきた。
すごく可愛かった。やっぱりなっちは誰よりも可愛い。この子さえ元気でいてくれれば、それでいいと思った。
なっちを抱きながら会計をして、退院。その後、家に帰り、パパは仕事。ママとなっち二人でお昼寝をした。
結局、なっちの隣の方が良く眠れる事が解った。


手術当日と翌日だけ欠勤のつもりだったが、医者にも「1週間は安静に・・」と言われたので、一応その週はすべて仕事を休んだ。
退院した次の日の夜、ちょっとお腹が痛いな?と思いトイレに行ったら、すごい出血をしていて、びっくりした。
ちょうど、生理2日目くらいの出血。
今まで何も無かったし、これからも何も無いと思っていたので、本当にびっくりして、一応病院に電話をしたら、すぐに担当医に連絡を取ってくれた。
が、その程度なら多分大丈夫だから、ちょっと様子をみて、次の日の午前中に診察に来るように言われた。
出血はその後、少し減ったが、痛みは定期的にひどくて、大変だった。
翌日、病院に行って診てもらったけど、一応子宮内は異常なしだった。傷も無いし、多少血は残っているからまだ出血するかもしれないけど、心配はいらない、との事だった。
しかし、腹痛は止まらなかった。
生理痛の何倍も痛かった。痛くて動けなくなるほど痛かった。義母がかなり心配して、「他の病院で診てもらったら?」と言ってくれたが、私はそれをしなかった。
姉に電話したら、「子宮収縮剤のせいでは?」と言われた。
手術した日の夜から服用している「子宮収縮剤」。出産後も処方されたが、その時は私はほとんど痛みは感じなかった。
しかし、帝王切開で産んだ姉は、出産後の子宮収縮の痛みがひどかったらしい。
確かにそういう痛みだ。で、あんまり痛いものだから、処方された収縮剤は、途中で飲むのをやめてしまった。
(でも、少しはよくなったが、その後1週間くらい腹痛は続いた。これが一番辛かった〜)

手術後初めての日曜日、突発的にだーりんに「ディズニーランドに行きたい!」と提案した。
現実逃避がしたかったんだと思う。夢の国にでも行けば心が晴れると思った。
しかし、相変わらずの腹痛だったし、夢の国は激混みだったし(当たり前)、周りは子連ればかり。
しかも、なっちと同じくらいの歳の子と手をつなぎ、その隣にはベビーカーに赤ちゃんを乗せて歩いているお父さんがいたりして、そういうのを見ると鬱になった。
気にしすぎだと自分でも思ってた。別にその子が欲しいわけじゃなかった。
「うらやましい」って言葉ともちょっと違う気がした。ねたましいわけでももちろん無い。 むなしいというか、悲しいと言うか、なんていう気持ちだろう。
とにかくなんだかもやもやしていた。
でも、せっかく来たから楽しんだけど。


次の週から仕事に復帰。流産はごく近しい人にしか教えていなかったので、ある意味かなり楽だった。(周りから変に気を使われなかったから)
当たり前のように仕事をして、当たり前のように自転車通勤をしていた。
お腹の痛みは、そのうちに無くなっていた。
ちょうど仕事が忙しい時期にさしかかっていたので、そういう意味では気がまぎれたんだと思う。
でも、妊娠がわかったとき、浮かれて、職場の個人用カレンダーに毎週数字(今日から○週って意味の数字)を書いてしまっていたので、その数字だけがむなしく残ってしまった。
この数字、なんと8月末まで書いてあった。
その数字を見ながら、「もし大丈夫だったら今頃は・・」と思う日が続いた。


手術後初めての生理は、ちょうど術後1ヶ月の6月27日に来た。
「生理が来て嬉しい!」なんて思ったのは、正直生まれて初めてだった。
出血量もいつもと変わらなかった。いや、逆にちょっと少なめで軽くて楽だった。
子作りは、すぐにでも始めたかったが、「生理2−3回待って」との事だったので、我慢した(笑)

結局子作り再開したのは、生理3回終了後から始めた。だーりんが私の身体を心配してくれたからなんだけど、個人的には、実は医者の言葉を無視して生理を待たずに始めたい気持ちだった。
まあ、私のそんな気持ちを知ってのだーりんの制御だったんだと思うけど・・。

体調はそれなりに良かった。というか、全然普通だった。
でも、精神的ダメージは、時間が経つに連れて、どんどん大きくなってきた気がする。
このまま妊娠できないのではないか?と思えば思うほど、早く赤ちゃんが欲しいと思った。
これはなんだろう。「女の意地」ってやつなんだろうか。
人間の深層心理なんだろうか。「無いものねだり」ってやつなんだろうか・・・

もともと、「できにくい体質」なんだろうとは思っていた。
なっちの時も子作り解禁後も1年以上かかった。
その次の妊娠も半年かかった。
だから今回も長い目で見ないとダメだとは解っていた。でも、「流産後は出来やすいよ」という言葉を信じている自分がいた。
正直、すぐできると思っていた。
でも、解禁後すぐに当たり前のように生理は来たし、基礎体温も変わらずだった。
解禁後は生理が来るたびに焦りが増していた。
我ながら変な気持ちだった。自分の頭の中の80%以上が子作りの事を考えている状態だった。
ばかばかしいと思う日もあった。
なっちもだんだんと手のかかる、まさに「魔の二歳児」に変貌を遂げている時だった。
こんなに手がかかるなら、1人で充分と思ったし、なっちとだーりんと3人の生活にも慣れ始めていて、別にここにもう1人増やす必要があるのかどうかとも思ったりした。
それでもやっぱり妊娠したかった。
もう「子供が欲しい」ではなく「妊娠したい」という事ばかり考えていた。


だーりんはあくまで冷静だった。
焦っている私の事を黙って見つめていてくれた。
排卵日近くになって、「今週は子作り強化週間だよーん」なんてふざけて言えば、「よし、まかせとけっ!」とかふざけて返してくれた。
でも、実はだーりんは、夏が終わる頃から、仕事が猛烈に忙しくなっていた。週休0日がずっと続いていた。夜も午前2時・3時帰宅なんて当たり前だった。
それでも、黙って、私がしたいようにさせてくれていた。
ただ、「焦る必要は無いよ」といつも言っていた。「このままでいいじゃん」とも。
解っていたけど、どうしようも無かった。
やっぱりあの頃の私はおかしかった・・・。


秋、姉の3人目の子が生まれた。
きれいな満月の夜のことだった。
女の子だった。
「生まれたよ」という実家の母からの電話。「かわいいよ。お前も赤ちゃん見たら、早く欲しいって思うようになるよ」と言われた。
母にとっては何気ない一言だったんだろう。でも、私にとってはすごく傷つけられた気分だった。
「欲しいんだよ。だけどできないんだよ!ダメになっちゃうし!!」と怒鳴って電話を切った。
あとで猛省した。
流産の手術をしたのは5月終わり。それから5ヶ月も経っていた。
母にしてみれば、私の流産はもう「過去の出来事」だったに違いない。だからそんな風に言えたんだろうと思う。
しかも、私は、あまり「流産で非常に傷ついた」と言うのを表に出していなかった。
出したところで、別に何するわけでも無いし、何より「かわいそうがられる」のがすごく嫌だったから。

姉の出産は、解っていたことだった。予定日通りの出産だった。
妊娠初期に少しトラブルがあったので、心配していたが、元気な子だったと言う事で、本当に良かった。
その日は平日だったので、週末までその子の顔を見られない。
早く姉に会いたい、とは思ったけど、赤ちゃんをちゃんと見られるか心配だった。
赤ちゃんを見る事で、自分が精神的に大丈夫か、と言うのが怖かった。
私と姉はすごく仲良しだ。私は姉を尊敬しているし、姉は私をすごく可愛がってくれる。
それでもなんだか不安だった。
予定通り、かわいい赤ちゃんを手に入れられた姉と、そうでない自分。
本当は、姉の出産予定日には、すでに私は産休に入っているか否か、という時期だった。
だけど、へこんだお腹。当たり前のように繰り返される毎日。
いったい何が違うんだろう。
欲しかったものを手に入れた姉とその「欲しかったもの」を実際目の前にして、私は正気でいられるのかどうか・・・。


週末、病院に行った。
姉は元気そうだった。
そして、赤ちゃんは想像以上に可愛かった。
「あんたも欲しくなるよ」という母の言葉が、頭によみがえった。
本当に可愛い。私も欲しい。私もまたがんばろう。
ただただそれだけしか思い浮かばなかった。
心配していた負の気持ちはまったく出てこなかった。
それよりもむしろ、正の方向に気持ちが切り替えられた気がするのは、やはり、赤ん坊って天使だからなんだろう、と思った。
この子は、私の子の分まで元気に健やかに育って欲しいと思った。


ところで、子作りに対する執念は消えたわけではなかった。
でも、多少疲れてきていたのは確かだった。
自分の中で、「今年中に妊娠できなかったら、もうあまり深く考えないにしよう」と心に決めた。
12月の排卵日の時に、だーりんに「ごめん、今回が最後だから。」と言った。
だーりんは、「焦らなくていいよ」とまた言った。
それで充分だった。ちょっと疲れた。


12月18日がやってきた。
多分「出産予定日」になったはずであろうこの日は、生理予定日の1日前でもあった。
この日は、生理がもし来ていたとしても、検査薬を使うんだと、前から決めていた。
朝一番で試した。
びっくりした。陽性だった。
妊娠していた。

「稽留流産」の後遺症は、実際、次の妊娠が解ってからの方が顕著に現れると言う事を、身をもって体験した。
「稽留流産」と言うのは、本当に母体にはなんの症状も出ない流産。
上の方で、やれ下痢をしただの、足が痛かっただの、つわりが軽かっただの書いたけど、流産を知らされた後になって「そう言えば・・」と思っただけの話で、妊娠中はまさか育ってないなんて、思ってもみなかった。(いや、ちょっと予想はしていたが、それでも『まさか』だった。)
で、次の妊娠。
毎日毎日が不安だった。病院での診察は、死刑判決を受けるような気分で受けていた。
三度目の妊娠の初期、出血する事が多かった。だから逆にそれを理由に、1週間ごとに病院に行って、そのたびに赤ちゃんが生きているのを確認していた。
心拍が確認できても、ちゃんと育っているのがわかっても、母子手帳をもらっても、胎動が始まっても、それでもどこかに「またダメかも」という気持ちが付きまとう。
そんな気分ではダメだと思うが、こればっかりはどうしようも無いようだ。
でも、1人で悲劇のヒロインを気取るのもおかしい。だって全然悲劇では無い状況なのだから。
このままうまく育って欲しい。
40週お腹の中で頑張ってくれれば、それでいい。




この手記は、平成14年12月に流産後妊娠している事が確認され、その子が無事に育ってくれている事が解っている間に書いています。
手術から1年経つはずの平成15年5月までにはなんとかアップしようと思って書きました。
忘れている事もあり、いい加減なところもあり、でも、顔を見る事さえできなかった「遥」が、それでもこの世(というか私のお腹の中)で、少しだけでも育っていたのだという「証拠」として書きました。
長々と失礼しました。読んでくれてありがとう。
H15.4.9(初稿)
H15.5.21(編集)
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